母 逝く。

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1月3日午前6時。母が逝った。
最近の母はずっと眠り続けていたが、そのままの姿で穏やかに息を引き取って逝った。
本当に逝ったのか半信半疑のままにいたら、宿直の医師が検診され「6時5分、死亡を確認しました。死因は老衰にしましょう。」と言われた。
なぜか悲しさはあまり強くなく、むしろ「お疲れさま」というのが正直な気持ちだった。
本格的には9月から、本当によく頑張った。
100歳と4カ月。見事な生涯だったと息子ながら感服している。

入院してからも、時折襲う痛みや息苦しさにも気丈な姿勢を保ち続け、意識のなくなるまで従容として死を受け入れつつ笑顔を見せて日々を過ごした。
父の生涯も戦前、戦後を通しての波乱に富んだものだったし、いつでも前向きで精力的だった姿に敬服したが、負けず劣らず母の生き方も毅然として学ぶ姿勢を貫き孤高を保つ姿は立派だった。

ギニアの外交官だったオスマンサンコンが、テレビタレントのころ「ギニアでは老人が無くなると『図書館が一つなくなった。』というのです。」というのを聞いたことがある。素晴らしい表現だと思った。
これに模せば、母の死は私にとっては「文化館が一つなくなった。」ということになる。

母の花の活け方が大好きだった。
こちらへ来てからはあまり大きなものは創れなかったが、小さな花瓶に庭でとれた草花をちょっと活けただけなのに容が決まっていた。そんなセンスを持つ母が羨ましかった。
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書体も好きだった。素直ななかに品を感じた。
色々書かせたし、自らもを別れを意識して色紙を書き続けた。
<母の辞世の句>
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私が連れて歩くときはメモ帳と鉛筆は決して欠かさなかった。
帰ってきたときに必ず何編かの俳句が書き込まれていた。
謡曲だけは逃げ回ったが、これは70年間もの間習い続け、まだ学ぼうとし伝えようとしていた。
100歳を間近にしながら、なお忙しそうに美を求め続け楽しもうとしていた母のエネルギーは枯れることがなかった。
もうこの文化館は二度と開館しない。

1月1日。家内と娘達とが全員日帰りでいすみを訪れた。
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母の容体がおもわしくなかったのが最大の理由だが、
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これまで家族のそろわない正月を迎えたことがなかったこともあるのだろう。
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さすがに今年は無理だろうから、少しセンチメンタルさを楽しもうと、近くのスーパーで小さなおせちを買ってきておいたのだが、2日の酒の肴になった。
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1月2日。午後母を看に医療センターへ行ったが、ここのところ母はもう寝ているだけで反応はない。
毎日洗濯物のタオルやバスタオルだけ取り換えに行くようなものだ。
手足の様子と呼吸、血圧だけ確認して帰ってきた。
血圧は90程度で安定していた。
夕方、医療センターの看護婦さんから電話が入った。
血圧が40近くまで落ちてきて心配だから来て欲しいと言われる。
あわててセンターへ行ってみると、血圧は70程度まで回復しており、看ている間も変化は見られなかった。
ただ一回の呼吸が普段より短く切れた時が一度ありちょっと気になった。
一時間ほどして看護婦さんが「もう私たちが診てますから」と言ってくださり、引き上げることにした。
その際「私は夜盗虫ですから夜は2時、3時までは起きてます。お気になさらず何時でも呼んでください」と言い残した。
(1月3日)
寝られるわけがない。3時になっても、4時になっても頭は冴えるばかり。
ようやく白々としてきた5時30分過ぎ電話があった。
「血圧が急に下がり始めました。すぐ来てください。」
着替えて家を飛び出し、センターに着いたのが6時少し前。
母を見た時にはもうほとんど呼吸をしているとは思えなかった。そして直後に息が細くなり、絶えた。
丁度6時だった。
長女の時と違い、そばに心拍数や血圧を確認する機械はなかった。
寝ている時の母の姿と全く変っていないので、医師から「死亡確認」を宣言されるまで臨終だとは思っていなかった。

看護婦さんたちからすぐに遺体の処置をするからといわれ、別れの時を過ごすゆとりもなく病室を出る。
弟と家内に連絡し、看護婦さんから手渡された葬儀社の一覧表からわからないままに一つを選びたし、事後の手当てを依頼したのが6時半を回っていた。
一時間半ほどして車が到着し、病室から地下の出入り口まで母を運んで車に乗せた。
車を先導して自宅まで戻り、畳の部屋に母を寝せた。
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母と二人きりになりやっとホッとした。なぜか母もそうじゃないかと思った。
今になって考えれば、ホッとしたのはこの時だけだったかもしれない。
いつの間にかここも本当の自宅になっていた。

母の横でボーっとしていたら、午後家内と末娘が着いた。
二人とも普段どおりの顔つきであまり悲しそうな感じになっていない。
一昨日見舞った様子で覚悟はしてたのだろう。

夕方葬儀社の方が来られ本格的な通夜と葬儀の準備が始まった。
弟と話し合って葬儀は家族だけでいすみの自宅でやることにした。
母も望んでいたことだし父もそうした。私自身の最も納得のいく形だった。
4時に勝浦にある浄土真宗真光寺のご住職正木さんに枕経をあげていただいた。(外房は日蓮宗と天台宗が多く、真宗は少数派らしい。)

1月4日。
朝から通夜の準備が一つ一つ進み始めた。
先ずは母の旅支度から始まった。
葬儀社の柳さんのリードで3人で母に手甲・脚絆・足袋を纏わせた。
ままごとみたいで馬鹿らしいと思ったが、そんなこと言ったら母が怒って起き出すかも知れない。真面目な顔をして丁寧にひもを縛った。
母は氷のように冷たかったが、看護婦さんたちがしてくださった薄化粧で寝ているように穏やかな顔だった。なんとなく誇らしかった。
次いで私の寝室に祭壇が作られた。
私の一存で進めた質素なものだったが、大きさは丁度良く誂えたように寝室にぴったりとした姿になった。
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誰も呼ばずの身内だけの葬儀だから特に忙しくない。
この日家内と二人でしたことは、祭壇に置くリンゴとバナナとオレンジを買うことだけだった
次女家族と弟夫婦が到着した。
病室での母を怖がった玄太郎が、意外に遺体は怖がらなかった。
<玄太一人>
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<玄太と私の弟>
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<親族全女性>
涙じゃなくて笑い顔。喪主の緊張感が足りなかったか…
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家内と娘二人、孫の玄太郎、弟夫婦そして私。日ごろお世話になってる隣家の高師さん(枕経から葬儀まで3日間いてくださった。)の8人での通夜となった。
最中の写真はないので母の戒名だけ。
<幽光院釈尼貞雅>
戒名は、生前から父と一緒に準備していた。
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<通夜の会食>
正木副住職の通夜のお勤めが終わって全員で会食となった。
嬉しかったのは住職が、最後まできちんとお付き合いくださり、食事の時間を利用してと母のことをいろいろお伝えできたことだった。
葬儀に当たって母のことをよく知っていただきたいと思う家族の気持ちをくみ取っていただいたような気持だった。
食事もなかなかおいしくて皆談笑(?)のうちにぺろりと平らげていた。
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開けて5日
12時から葬儀が始まった。
正木住職の朗々とした読経はうかがっていて気持ちが良かった。
真宗を聞き慣れているせいでよけいに安らいだ感じた。
家族だけでと思っていた葬儀だったが、勝手連とおしゃもじ隊のメンバーがわざわざ参列してくださった。
親戚にもまだ知らせてなかった母の死だったが、勝手連だけには知らせておかねばという気持ちと
知らせたら特におしゃもじ隊まで面倒をかけるという気持ちが入り混じったが、やはり連絡をしてしまった。
これだけは母の願いでもあったような気持ちで…
<参列いただいた望月、内田、岩佐各夫妻>
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<お花で包む>
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<謡曲の扇子を入れる。>
弟が名古屋から持ってきた扇子を2本だけ入れた。
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<教本も入れた>
教本も一冊にした。大好きだった帽子を入れるのを忘れてしまった。
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こうしては母逝った。
生涯を「学ぶ」という姿勢で貫いた、意志の強い人だった。
自ら学び、人に教える、まさに教育者の生涯だった。
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